高台から望む東スラヴ三首都

 はじめに

 「街」をいかに満喫するか、その方法は様々だ。ただ道を歩くだけでも異国では充分なアトラクションになりえるだろうし、そのへんのカフェに入ってみたり、博物館や美術館で丸一日潰したりするのもまた一興だ。

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モスクワ・大ウスチインスキー橋から 散歩中に思いがけない絶景に出会うこともある

 しかし個人的には街を俯瞰してみたいのだ。高台や展望台に登って街を見下ろし、そこに広がる街の姿に見惚れる瞬間はたまらなく心地よい。街に降り立って直にその雰囲気を感じるのも良いが、上から眺めるからこそ分かる街の特徴も少なくない。街はどこまで広がり、どのような建物が立ち並び、どのような地形に抱かれて街が立っているのか、じっくりとその姿を観察することが何よりも楽しい。

 今回は「高台から望む東スラヴ三首都」ということで、一般的に東スラヴ三国と称されるロシア・ウクライナベラルーシの首都であるモスクワ・キエフミンスクの三都市を高台から眺めると一体どのような姿になるのか、ということをご紹介したいと思う。しばしば「三姉妹」と称される三国の首都の特徴を是非見比べてみてほしい。

 

ロシア・モスクワ

 

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モスクワメトロ2号線マヤコフスカヤ駅 偉大なるロシアの首都は地下までも美しい

 まずはロシアの首都モスクワからだ。これは意外と知られていないことかもしれないが、モスクワの人口は約1250万人(2018年現在)にも及び、これはヨーロッパでは一番多い(ロシアがヨーロッパなのかどうかということはさておき)とされている。著名な観光地として知られるのは冒頭で紹介した写真にあるクレムリン、そしてその周辺にある 赤の広場や聖ワシリィ大聖堂などなど。地下にはメトロが複雑に張り巡らされ、「美術館」とまで称されるほど美しい駅たちが町中に散らばっている。

 そんなモスクワを見下ろす高台スポットの1つが雀が丘(Воробьёвы горы)だ。クレムリンから地下鉄1号線(ラインカラーが赤色の路線だ)に揺られること約12分、トンネルから突如地上に抜ける瞬間が訪れる。プラットホームまで辿り着くまでが異様に深いことで知られるモスクワメトロに乗っているだけあって一瞬面食らってしまうが、雀が丘駅はモスクワ川に架かる橋がそのまま駅になっている。

 この通り「雀が丘」駅といっても駅自体は丘の麓にあるので展望台へは20分程の登山をすることになる。展望台の方へと向かう散策道は常に地元の人たちで賑わっており、夏は爽やかな木々たちを、冬はカチコチに凍ったスリリングな坂道を楽しむことができる。しばらくするとちょっとした大通りに出るのでそこで右手に進むこと更に10分、坂の頂上あたりに立ち並ぶ建物とその向こうにある展望スペースが見えてくるといよいよゴールだ。

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雀が丘から 正面の巨大ドームはロシア最大の球技場「ルジニキ・スタジアム」

 展望台の奥に進むとまず視界いっぱいに飛び込んでくるモスクワの姿に思わず息をのむ。ソ連初期の作家エフゲーニィ・ザミャーチンが記したディストピア小説『われら』の舞台となった「緑の壁に囲まれた国」とはモスクワをモチーフにしていると言われるが、一体どこに「緑の壁」があるのかと思うほどに広大な景色だ。実際モスクワは森に囲まれているのだが、その事実を忘れさせられるほどにこの都市は巨大なのだ。欧州最多の人口を抱えるというのも納得できる。

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ある意味もっとも「モスクワらしい」景色かもしれない

 まずは正面左側、モスクワ・キエフスキー駅付近に注目してみたい。まず目に入るのはもうもうと煙を上げる巨大な2本の煙突だ。大都市の中心部に煙突が聳え立っている光景がまず新鮮だが、それでいてその正体が火力発電所だというのだから驚きだ。右側の煙突にかかる白色の建物はロシア連邦政府庁舎で、「モスクワのホワイトハウス」として知られる。なお実際の大統領府や官邸は今もクレムリンに存在する。

 続いて尖塔型の重厚感ある建造物が2つ見えるが、これはいわゆるスターリン建築(正確にはスターリン・ゴシック)という様式で、その名の通り1950年代に時の指導者スターリンの指導によって建てられたものだ。モスクワにはこの他5つのスターリン様式の建物が存在し、総称して「スターリン7姉妹」として知られている。これらの建築物を「スターリンソビエト負の遺産である」と評価する声も少なくないのだが、豪華絢爛な装飾に包まれた高層建築には思わず目を惹かれる。写真では左側がキエフスカヤにあるラディソン・ロイヤルホテル(かつてはウクライナホテルと呼ばれていた)、右側がアルバートにある外務省庁舎だ。

 手前側に視線を移すと目に入る金色の教会はノヴォデヴィチ女子修道院で、モスクワにある正教会の著名な女子修道院の1つだ。そしてそのすぐ側を走る列車は2016年に開業したばかりのモスクワ中央環状線のもので、日本の鉄道にも負けずとも劣らないハイテク最新鋭車両が投入されている。

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輝かしい夏のモスクワ 防寒着を着なくていい分こちらの方が手軽ではある

 今度は季節変わって夏の雀が丘からモスクワを眺めてみる。緑いっぱいの煌く夏のモスクワか、荒凉とした落ち着きのある冬のモスクワか。どちらが良いかと言われたらこれは各人の好みによるが、間違いなく言える事はどちらにもそれぞれの良さがあり、この街の魅力は変わることがないということだ。

 このアングルだと煙突の間にオスタンキノタワーを望むができる。このタワーはソ連時代の1968年に建てられた高さ540メートルの電波塔で、かつては世界一高い自立型建造物であった。近未来的な外観もさることながら「高台から街を見る」という点でもいつかは登ってみたいものだ。

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モスクワの街並みの中ではどこか異質さを感じさせるモスクワ・シティ

 もう少し左側に視点を移してみると今度は突如としてビル群が出現する。それもただのビル群ではなく、螺旋状であったり楕円状であったりと非常に奇抜な格好をしていて、どれも超高層建築なのだ。このエリアはモスクワ国際ビジネスセンターという場所で、一般的には「モスクワ・シティ」と呼ばれる。ソ連が崩壊しロシア連邦が成立してすぐの1992年に計画された再開発プロジェクトの1つで、2000年代から続々と建設が開始、2008年の金融危機を経ながらも現在まで高層ビルの建設は続く。あまりの異質さに突如として別の都市が出現したかのように錯覚するが、ロシアひいては東欧の威信をかけた一大プロジェクトなのだ。

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ルジニキ・スタジアムの上にモスクワ中心部を垣間見る

 今度は視点を右側、モスクワ中心部の方に移してみよう。スタジアムに隠れて少し見えづらいが、右端にちょこんと聖ワシリィ大聖堂とクレムリンの教会が見える。中央の大きな金色のドームの教会はアルバーツカヤに建つ救世主ハリストス大聖堂だ。奥には「スターリン7姉妹」の1つであるВысотное здание на площади Красных Ворот(直訳すると「赤門広場の高層建築」となるが、しっくりこないので「紅ノ門ヒル(ズ)」とでも訳しておこう)が見える。

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夕暮れとなるとやはり冬の方が美しいかもしれない

 再び季節は冬に戻る。夕暮れ時には街とともに煙突の煙が夕日の色に輝いて幻想的な光景が広がる。ウラジーミル・トローシンが歌う名曲『モスクワ郊外の夕べ(Подмосковные Вечера)』は夏のモスクワを舞台にしているが、冬の夕暮れのモスクワを眺めながら聴いても味があるものだ。

 中世・近世の伝統が息づく正教会スターリンの息のかかった「7姉妹」と近未来的なソビエト建築、そして東欧の未来へと突き進む先進的なモスクワ・シティの姿。輝かしい大都会のはずなのにどこか時が止まったかのように様々な時代の空気が入り混じる街、それが「モスクワ」だ。この静かなる混沌さは人々を魅了してやまない。雀が丘はそのモスクワの姿を一挙に視界へと収めることができる素晴らしい場所だ。

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モスクワ大学の寮 外観の美しさと「非常に素晴らしい居住性」が評判だ

 余談だが、「スターリン7姉妹」のうちの1つは雀が丘のすぐ後ろに聳え立つ。これはロシアの最高学府モスクワ大学の寮で、本学からだと派遣留学はもちろんショートビジットでもここに居住することができるのだ。スターリン建築の建物に住める貴重な体験となる事は間違いないが、その前に是非留学経験のある先輩方に体験談を聞くことをお勧めする。きっと「とてもとても素晴らしいロシアン・ライフ」の詳細を語ってくださるだろう。

 

ウクライナキエフ

 

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キエフの中心地である独立広場 革命の舞台として記憶に新しい

 続いてはウクライナの首都キエフだ。モスクワから寝台列車でおよそ15時間、空路だと直行便が存在しないのでミンスク経由で5時間ほどだろうか。かつてはソビエト連邦の一員であったウクライナは2014年のクリミア危機以降ロシアとの関係が急速に悪化、「直行便が存在しない」というのはつまりそういうことだ。かろうじて鉄道路線は数本残っているが、それでもかなり減便されてしまった結果なのだとか。今に至るまで「脱ソビエト・反ロシア」という雰囲気を漂わせるウクライナだが、首都キエフで通用する言語は実はウクライナ語よりもロシア語の方が主流であり、この国の社会の複雑な事情を伺わせる。

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ケーブルカーの麓駅 全体的に青と黄色のウクライナカラーである

 キエフドニエプル川河岸段丘のもとに築かれた街なので全体的に坂が多い。今回目指す高台には地下鉄2号線(ラインカラーが青色の路線だ)のПоштова Площа(ポシュトワ広場)駅からケーブルカーに乗っていくことができる。歩くのが苦でない方なら独立広場から坂を15分ほど登ってもたどり着く事が可能だ。この高台は「ヴォロディミルの丘」といい、キエフ大公国の大公であったヴォロディミル1世の名を冠した公園が広がる。

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ヴォロディミルの像の先にドニエプル川と郊外を望む

 ケーブルカーを降りて左手に進むと少し開けた場所があるのでそこから街を見下ろすことができる。ドニエプル川に向かって右手側にはヴォロディミル1世の立派な像が、まるでキエフの街を見守るかのように座している。

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濃密な空気感に思わず息もできないほどに圧倒されてしまう

 左手を覗き込むように見るとこちらには市街地とキエフ郊外が見える。大河ドニエプル川に抱かれて広がるキエフは円状都市モスクワと比べると幾分か小ぶりだが、その濃密な空気たるや凄まじいものである。この街はモスクワ以上に時が止まったような、誤解を恐れずに言うならば「まるで廃墟かのように」ただただ静かに鎮座している。この独特の空気感は厳冬ゆえのものだったのかもしれないが、初めてこの場所に立った時はつい呆然と立ち尽くしてしまったものだ。

 しかし残念だったのは、川に向かって左側にまだまだ市街地が広がっているのに木々のせいであまり良く見えなかった事だ。もう少し街がよく見える場所があればと思っていたのだが、遠い日本からその思いが通じたのか2019年夏に再訪した時には丘の少し下になんと展望台が新設されていた。

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新設された展望台から 設計者に万雷の拍手をお贈りしたい

 求めていた景色は想像を遥かに超える美しさで、再びこの公園で立ち尽くしてしまうこととなった。冬に来た時にはまるで時が止まってしまったかのように思えたキエフドニエプル川の畔で煌びやかに輝いていた。それでもどこかセピア色の写真を見ているかのように色褪せた雰囲気を感じさせるのがキエフだ。その背景には1990年代から2000年代に至るまでの経済の停滞があり、今もなおキエフに真新しいビルはあまり見当たらない。郊外に広がるのはスターリンからフルシチョフの時代に建てられたであろうアパートで、街をより一層モノクロームに仕立てようとしている。

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色褪せた郊外のアパートも今を生きる人々の暮らしの場である

 そう、この濃密な空気というのはまさしくソビエトの置き土産なのだ。ソ連崩壊からしばらくの間停滞していた社会のせいでキエフには今もなお生々しいソビエトの空気が生き続けているのである。それはソビエトの首都であったモスクワからはすっかり薄れてしまったものだろうし、だからこそウクライナの唱える「脱ソビエト」という言葉にも重みが加わる。しばしば政治的イデオロギーのように捉えられるソビエトというものも、実際にはこの街そのものなのかもしれない。

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2014年ユーロマイダン革命慰霊碑

 惜しむらくはヴォロディミルの丘からはキエフの中心地かつシンボルである独立広場を見ることができないということだ。だからこそ2014年の革命の舞台でもあるこの場所は高台からではなく必ず自分の足で踏み締めて、その目で確かめていただきたい。ある意味最も「彩り」を感じさせるキエフの姿がそこには存在する。

 

ベラルーシミンスク

 

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ミンスク駅にたどり着くと「ミンスク・ゲート」が出迎えてくれる

 ベラルーシ知名度はおそらく今回紹介する三国の中では一番低いと思われる。しかしながらつい先日には昨今世間を賑わせている口にするのも忌々しい某ウイルス対策において、この国の大統領であるルカシェンコ氏が「ウォッカを飲めば大丈夫」「サウナに入るのも予防になる」という日本のネットユーザーさながらのトンデモ発言を大真面目にしたことで不名誉ながら話題になっていた。

 とはいっても正直ルカシェンコ氏のことを以前から知っていた人たちにとっては「なんだまたか」という感想しかないだろう。1994年に大統領に就任して以来、再選禁止の憲法を改正して再選に再選を重ね今もなお大統領を務めるルカシェンコは西側から「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれる。ベラルーシに駐在する在外公館の人間を突如として追い出したり、IMFに散々喧嘩を売った挙句に経済危機で融資を申し入れたり、自らが愛してやまないアイスホッケーのためのスタジアムをわざわざ建設したりと「奇行」を挙げればキリがない。西側の代表格であるアメリカさんからは「最悪の独裁国家」とまで言われてしまったベラルーシだが、一体どれほど恐ろしい国なのだろうと身構えて渡航すると驚くほど拍子抜けする。まずビザが簡単に下りる。書類こそ少々面倒だが、ちゃんと書けば日本人は無料でビザを受け取ることが可能だ。

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中心部の公園は市民たちの憩いの場だ

 そして実際に渡航してみると街は清潔で明るく、人々はみな親切で、開放感に溢れている。さらにはインターネットも特段問題なく繋がる(ただ大統領の悪口を露骨に書き込みまくるのはあまりおすすめしない)ので旅行で滞在している分には「独裁国家」という実感は全くない。居住性に関しては東スラヴ三国の首都の中でダントツの良さであった。

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ベラルーシ国立図書館 あまり図書館という風体ではない

 ミンスクはのっぺりとした平野の中にある街なので「高台」というものは存在しない。代わりにミンスクを代表する展望スポットから街を眺めることにしよう。ラインカラーが青色の地下鉄に乗ってУсход(東)駅で降りると八角形の不思議なキューブ状の建物が鎮座しているが、これがベラルーシ国立図書館である。この珍妙なデザインについてはかなり賛否両論があったようだが、なんだかんだでミンスクのランドマークとして知られている。地上から約70メートルの高さにある屋上は展望台として開放されているので、今回はそこを目指す。

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図書館屋上からミンスク中心地を望む

 エレベーターで屋上まで行き、市街地の方向を見る。まずなんといっても緑が多さに気がつくだろう。ベラルーシは先述の不名誉な異名以外にも「緑の国」という非常に美しい名を持っている国で、まず首都からして緑に包まれている。構造としてはモスクワと同じ円状都市だが、ミンスクは随分とコンパクトで住宅地が多い。目の前の大通りはПраспект Незалежнасці(独立大通り)で、中心地へと続くミンスク最大の通りだ。

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特徴的な煙突が目を惹く

 それにしても本当に緑が多い。一国の首都のはずなのに、まるでどこかの地方都市かのようにのんびりとした光景が広がる。むしろこの長閑さがミンスクの魅力かもしれない。

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振り返るとすぐそこまで森が迫っている

 しかし緑の国の本領はここからで、市街地と反対側の方をみると目の前にはなんと地平線まで続く森が広がっているのだ。ザミャーチンが『われら』で描いた舞台は本当はミンスクだったのではないだろうかと思うほどの「緑の壁」が市街地のすぐそばに突如として出現する。まるでミンスクの周縁部に沿うかのように立ち並ぶ白色のアパートと緑のコントラストが美しい。どこまでも深い緑に思わず見惚れてしまう。

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大統領府のレーニン像 護衛の兵士は注意しに来るどころかわざわざ退いてくれた

 実はルカシェンコはベラルーシの「ソ連化」を推進している人物でもある。積極的にソビエトのエンブレムやレーニン像の保存を進めており、一度は変更になった国章を再びソ連時代に似せたものに変更したほどだ。しかしミンスクにはソ連から連想されるような圧迫的な空気は一切感じられず、先ほども記した通り非常に開放的な雰囲気が漂う。正確な理由はわからないが、なんにせよ街に広がる緑が人々の心を豊かにしてくれるのは間違いないだろう。「ソビエト」なるものにも様々な顔があるのかもしれない。

 

おわりに

 

 東スラヴ三国に共通することとは一体何だろう。「三姉妹」と称される程度には互いに近しい関係にあるという一方で、実際にはそれぞれの国がそれぞれの言語や文化を持って存在している。確かに一時期はみなソビエト連邦の一員となり、その残滓は崩壊から30年近く経過した今もなお各国に深く根差しているのは間違いないことだ。しかし崩壊後はそれぞれ異なる道を歩み、時には互いに対立し、各々が危機に直面し、「残滓」はそれぞれ違う形で発現することとなる。それでも切っても切れない関係にある三国の特徴を首都から感じ取ることはとても興味深いことである。

 もちろんここに記したことは各国のほんの表層にすぎず、実際の諸問題はもっと根深いものだ。この記事では東スラヴ三国が似て非なるものだということ、そしてソビエト時代の香りは今もなお生き残っているのだということを何となく感じ取っていただければ幸いである。