高台から望む東スラヴ三首都
はじめに
「街」をいかに満喫するか、その方法は様々だ。ただ道を歩くだけでも異国では充分なアトラクションになりえるだろうし、そのへんのカフェに入ってみたり、博物館や美術館で丸一日潰したりするのもまた一興だ。
しかし個人的には街を俯瞰してみたいのだ。高台や展望台に登って街を見下ろし、そこに広がる街の姿に見惚れる瞬間はたまらなく心地よい。街に降り立って直にその雰囲気を感じるのも良いが、上から眺めるからこそ分かる街の特徴も少なくない。街はどこまで広がり、どのような建物が立ち並び、どのような地形に抱かれて街が立っているのか、じっくりとその姿を観察することが何よりも楽しい。
今回は「高台から望む東スラヴ三首都」ということで、一般的に東スラヴ三国と称されるロシア・ウクライナ・ベラルーシの首都であるモスクワ・キエフ・ミンスクの三都市を高台から眺めると一体どのような姿になるのか、ということをご紹介したいと思う。しばしば「三姉妹」と称される三国の首都の特徴を是非見比べてみてほしい。
ロシア・モスクワ
まずはロシアの首都モスクワからだ。これは意外と知られていないことかもしれないが、モスクワの人口は約1250万人(2018年現在)にも及び、これはヨーロッパでは一番多い(ロシアがヨーロッパなのかどうかということはさておき)とされている。著名な観光地として知られるのは冒頭で紹介した写真にあるクレムリン、そしてその周辺にある 赤の広場や聖ワシリィ大聖堂などなど。地下にはメトロが複雑に張り巡らされ、「美術館」とまで称されるほど美しい駅たちが町中に散らばっている。
そんなモスクワを見下ろす高台スポットの1つが雀が丘(Воробьёвы горы)だ。クレムリンから地下鉄1号線(ラインカラーが赤色の路線だ)に揺られること約12分、トンネルから突如地上に抜ける瞬間が訪れる。プラットホームまで辿り着くまでが異様に深いことで知られるモスクワメトロに乗っているだけあって一瞬面食らってしまうが、雀が丘駅はモスクワ川に架かる橋がそのまま駅になっている。
この通り「雀が丘」駅といっても駅自体は丘の麓にあるので展望台へは20分程の登山をすることになる。展望台の方へと向かう散策道は常に地元の人たちで賑わっており、夏は爽やかな木々たちを、冬はカチコチに凍ったスリリングな坂道を楽しむことができる。しばらくするとちょっとした大通りに出るのでそこで右手に進むこと更に10分、坂の頂上あたりに立ち並ぶ建物とその向こうにある展望スペースが見えてくるといよいよゴールだ。
展望台の奥に進むとまず視界いっぱいに飛び込んでくるモスクワの姿に思わず息をのむ。ソ連初期の作家エフゲーニィ・ザミャーチンが記したディストピア小説『われら』の舞台となった「緑の壁に囲まれた国」とはモスクワをモチーフにしていると言われるが、一体どこに「緑の壁」があるのかと思うほどに広大な景色だ。実際モスクワは森に囲まれているのだが、その事実を忘れさせられるほどにこの都市は巨大なのだ。欧州最多の人口を抱えるというのも納得できる。
まずは正面左側、モスクワ・キエフスキー駅付近に注目してみたい。まず目に入るのはもうもうと煙を上げる巨大な2本の煙突だ。大都市の中心部に煙突が聳え立っている光景がまず新鮮だが、それでいてその正体が火力発電所だというのだから驚きだ。右側の煙突にかかる白色の建物はロシア連邦政府庁舎で、「モスクワのホワイトハウス」として知られる。なお実際の大統領府や官邸は今もクレムリンに存在する。
続いて尖塔型の重厚感ある建造物が2つ見えるが、これはいわゆるスターリン建築(正確にはスターリン・ゴシック)という様式で、その名の通り1950年代に時の指導者スターリンの指導によって建てられたものだ。モスクワにはこの他5つのスターリン様式の建物が存在し、総称して「スターリン7姉妹」として知られている。これらの建築物を「スターリン・ソビエトの負の遺産である」と評価する声も少なくないのだが、豪華絢爛な装飾に包まれた高層建築には思わず目を惹かれる。写真では左側がキエフスカヤにあるラディソン・ロイヤルホテル(かつてはウクライナホテルと呼ばれていた)、右側がアルバートにある外務省庁舎だ。
手前側に視線を移すと目に入る金色の教会はノヴォデヴィチ女子修道院で、モスクワにある正教会の著名な女子修道院の1つだ。そしてそのすぐ側を走る列車は2016年に開業したばかりのモスクワ中央環状線のもので、日本の鉄道にも負けずとも劣らないハイテク最新鋭車両が投入されている。
今度は季節変わって夏の雀が丘からモスクワを眺めてみる。緑いっぱいの煌く夏のモスクワか、荒凉とした落ち着きのある冬のモスクワか。どちらが良いかと言われたらこれは各人の好みによるが、間違いなく言える事はどちらにもそれぞれの良さがあり、この街の魅力は変わることがないということだ。
このアングルだと煙突の間にオスタンキノタワーを望むができる。このタワーはソ連時代の1968年に建てられた高さ540メートルの電波塔で、かつては世界一高い自立型建造物であった。近未来的な外観もさることながら「高台から街を見る」という点でもいつかは登ってみたいものだ。
もう少し左側に視点を移してみると今度は突如としてビル群が出現する。それもただのビル群ではなく、螺旋状であったり楕円状であったりと非常に奇抜な格好をしていて、どれも超高層建築なのだ。このエリアはモスクワ国際ビジネスセンターという場所で、一般的には「モスクワ・シティ」と呼ばれる。ソ連が崩壊しロシア連邦が成立してすぐの1992年に計画された再開発プロジェクトの1つで、2000年代から続々と建設が開始、2008年の金融危機を経ながらも現在まで高層ビルの建設は続く。あまりの異質さに突如として別の都市が出現したかのように錯覚するが、ロシアひいては東欧の威信をかけた一大プロジェクトなのだ。
今度は視点を右側、モスクワ中心部の方に移してみよう。スタジアムに隠れて少し見えづらいが、右端にちょこんと聖ワシリィ大聖堂とクレムリンの教会が見える。中央の大きな金色のドームの教会はアルバーツカヤに建つ救世主ハリストス大聖堂だ。奥には「スターリン7姉妹」の1つであるВысотное здание на площади Красных Ворот(直訳すると「赤門広場の高層建築」となるが、しっくりこないので「紅ノ門ヒル(ズ)」とでも訳しておこう)が見える。
再び季節は冬に戻る。夕暮れ時には街とともに煙突の煙が夕日の色に輝いて幻想的な光景が広がる。ウラジーミル・トローシンが歌う名曲『モスクワ郊外の夕べ(Подмосковные Вечера)』は夏のモスクワを舞台にしているが、冬の夕暮れのモスクワを眺めながら聴いても味があるものだ。
中世・近世の伝統が息づく正教会、スターリンの息のかかった「7姉妹」と近未来的なソビエト建築、そして東欧の未来へと突き進む先進的なモスクワ・シティの姿。輝かしい大都会のはずなのにどこか時が止まったかのように様々な時代の空気が入り混じる街、それが「モスクワ」だ。この静かなる混沌さは人々を魅了してやまない。雀が丘はそのモスクワの姿を一挙に視界へと収めることができる素晴らしい場所だ。
余談だが、「スターリン7姉妹」のうちの1つは雀が丘のすぐ後ろに聳え立つ。これはロシアの最高学府モスクワ大学の寮で、本学からだと派遣留学はもちろんショートビジットでもここに居住することができるのだ。スターリン建築の建物に住める貴重な体験となる事は間違いないが、その前に是非留学経験のある先輩方に体験談を聞くことをお勧めする。きっと「とてもとても素晴らしいロシアン・ライフ」の詳細を語ってくださるだろう。
ウクライナ・キエフ
続いてはウクライナの首都キエフだ。モスクワから寝台列車でおよそ15時間、空路だと直行便が存在しないのでミンスク経由で5時間ほどだろうか。かつてはソビエト連邦の一員であったウクライナは2014年のクリミア危機以降ロシアとの関係が急速に悪化、「直行便が存在しない」というのはつまりそういうことだ。かろうじて鉄道路線は数本残っているが、それでもかなり減便されてしまった結果なのだとか。今に至るまで「脱ソビエト・反ロシア」という雰囲気を漂わせるウクライナだが、首都キエフで通用する言語は実はウクライナ語よりもロシア語の方が主流であり、この国の社会の複雑な事情を伺わせる。
キエフはドニエプル川の河岸段丘のもとに築かれた街なので全体的に坂が多い。今回目指す高台には地下鉄2号線(ラインカラーが青色の路線だ)のПоштова Площа(ポシュトワ広場)駅からケーブルカーに乗っていくことができる。歩くのが苦でない方なら独立広場から坂を15分ほど登ってもたどり着く事が可能だ。この高台は「ヴォロディミルの丘」といい、キエフ大公国の大公であったヴォロディミル1世の名を冠した公園が広がる。
ケーブルカーを降りて左手に進むと少し開けた場所があるのでそこから街を見下ろすことができる。ドニエプル川に向かって右手側にはヴォロディミル1世の立派な像が、まるでキエフの街を見守るかのように座している。
左手を覗き込むように見るとこちらには市街地とキエフ郊外が見える。大河ドニエプル川に抱かれて広がるキエフは円状都市モスクワと比べると幾分か小ぶりだが、その濃密な空気たるや凄まじいものである。この街はモスクワ以上に時が止まったような、誤解を恐れずに言うならば「まるで廃墟かのように」ただただ静かに鎮座している。この独特の空気感は厳冬ゆえのものだったのかもしれないが、初めてこの場所に立った時はつい呆然と立ち尽くしてしまったものだ。
しかし残念だったのは、川に向かって左側にまだまだ市街地が広がっているのに木々のせいであまり良く見えなかった事だ。もう少し街がよく見える場所があればと思っていたのだが、遠い日本からその思いが通じたのか2019年夏に再訪した時には丘の少し下になんと展望台が新設されていた。
求めていた景色は想像を遥かに超える美しさで、再びこの公園で立ち尽くしてしまうこととなった。冬に来た時にはまるで時が止まってしまったかのように思えたキエフがドニエプル川の畔で煌びやかに輝いていた。それでもどこかセピア色の写真を見ているかのように色褪せた雰囲気を感じさせるのがキエフだ。その背景には1990年代から2000年代に至るまでの経済の停滞があり、今もなおキエフに真新しいビルはあまり見当たらない。郊外に広がるのはスターリンからフルシチョフの時代に建てられたであろうアパートで、街をより一層モノクロームに仕立てようとしている。
そう、この濃密な空気というのはまさしくソビエトの置き土産なのだ。ソ連崩壊からしばらくの間停滞していた社会のせいでキエフには今もなお生々しいソビエトの空気が生き続けているのである。それはソビエトの首都であったモスクワからはすっかり薄れてしまったものだろうし、だからこそウクライナの唱える「脱ソビエト」という言葉にも重みが加わる。しばしば政治的イデオロギーのように捉えられるソビエトというものも、実際にはこの街そのものなのかもしれない。
惜しむらくはヴォロディミルの丘からはキエフの中心地かつシンボルである独立広場を見ることができないということだ。だからこそ2014年の革命の舞台でもあるこの場所は高台からではなく必ず自分の足で踏み締めて、その目で確かめていただきたい。ある意味最も「彩り」を感じさせるキエフの姿がそこには存在する。
ベラルーシ・ミンスク
ベラルーシの知名度はおそらく今回紹介する三国の中では一番低いと思われる。しかしながらつい先日には昨今世間を賑わせている口にするのも忌々しい某ウイルス対策において、この国の大統領であるルカシェンコ氏が「ウォッカを飲めば大丈夫」「サウナに入るのも予防になる」という日本のネットユーザーさながらのトンデモ発言を大真面目にしたことで不名誉ながら話題になっていた。
とはいっても正直ルカシェンコ氏のことを以前から知っていた人たちにとっては「なんだまたか」という感想しかないだろう。1994年に大統領に就任して以来、再選禁止の憲法を改正して再選に再選を重ね今もなお大統領を務めるルカシェンコは西側から「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれる。ベラルーシに駐在する在外公館の人間を突如として追い出したり、IMFに散々喧嘩を売った挙句に経済危機で融資を申し入れたり、自らが愛してやまないアイスホッケーのためのスタジアムをわざわざ建設したりと「奇行」を挙げればキリがない。西側の代表格であるアメリカさんからは「最悪の独裁国家」とまで言われてしまったベラルーシだが、一体どれほど恐ろしい国なのだろうと身構えて渡航すると驚くほど拍子抜けする。まずビザが簡単に下りる。書類こそ少々面倒だが、ちゃんと書けば日本人は無料でビザを受け取ることが可能だ。
そして実際に渡航してみると街は清潔で明るく、人々はみな親切で、開放感に溢れている。さらにはインターネットも特段問題なく繋がる(ただ大統領の悪口を露骨に書き込みまくるのはあまりおすすめしない)ので旅行で滞在している分には「独裁国家」という実感は全くない。居住性に関しては東スラヴ三国の首都の中でダントツの良さであった。
ミンスクはのっぺりとした平野の中にある街なので「高台」というものは存在しない。代わりにミンスクを代表する展望スポットから街を眺めることにしよう。ラインカラーが青色の地下鉄に乗ってУсход(東)駅で降りると八角形の不思議なキューブ状の建物が鎮座しているが、これがベラルーシ国立図書館である。この珍妙なデザインについてはかなり賛否両論があったようだが、なんだかんだでミンスクのランドマークとして知られている。地上から約70メートルの高さにある屋上は展望台として開放されているので、今回はそこを目指す。
エレベーターで屋上まで行き、市街地の方向を見る。まずなんといっても緑が多さに気がつくだろう。ベラルーシは先述の不名誉な異名以外にも「緑の国」という非常に美しい名を持っている国で、まず首都からして緑に包まれている。構造としてはモスクワと同じ円状都市だが、ミンスクは随分とコンパクトで住宅地が多い。目の前の大通りはПраспект Незалежнасці(独立大通り)で、中心地へと続くミンスク最大の通りだ。
それにしても本当に緑が多い。一国の首都のはずなのに、まるでどこかの地方都市かのようにのんびりとした光景が広がる。むしろこの長閑さがミンスクの魅力かもしれない。
しかし緑の国の本領はここからで、市街地と反対側の方をみると目の前にはなんと地平線まで続く森が広がっているのだ。ザミャーチンが『われら』で描いた舞台は本当はミンスクだったのではないだろうかと思うほどの「緑の壁」が市街地のすぐそばに突如として出現する。まるでミンスクの周縁部に沿うかのように立ち並ぶ白色のアパートと緑のコントラストが美しい。どこまでも深い緑に思わず見惚れてしまう。
実はルカシェンコはベラルーシの「ソ連化」を推進している人物でもある。積極的にソビエトのエンブレムやレーニン像の保存を進めており、一度は変更になった国章を再びソ連時代に似せたものに変更したほどだ。しかしミンスクにはソ連から連想されるような圧迫的な空気は一切感じられず、先ほども記した通り非常に開放的な雰囲気が漂う。正確な理由はわからないが、なんにせよ街に広がる緑が人々の心を豊かにしてくれるのは間違いないだろう。「ソビエト」なるものにも様々な顔があるのかもしれない。
おわりに
東スラヴ三国に共通することとは一体何だろう。「三姉妹」と称される程度には互いに近しい関係にあるという一方で、実際にはそれぞれの国がそれぞれの言語や文化を持って存在している。確かに一時期はみなソビエト連邦の一員となり、その残滓は崩壊から30年近く経過した今もなお各国に深く根差しているのは間違いないことだ。しかし崩壊後はそれぞれ異なる道を歩み、時には互いに対立し、各々が危機に直面し、「残滓」はそれぞれ違う形で発現することとなる。それでも切っても切れない関係にある三国の特徴を首都から感じ取ることはとても興味深いことである。
もちろんここに記したことは各国のほんの表層にすぎず、実際の諸問題はもっと根深いものだ。この記事では東スラヴ三国が似て非なるものだということ、そしてソビエト時代の香りは今もなお生き残っているのだということを何となく感じ取っていただければ幸いである。
ウクライナ~キエフルーシ発祥の地~
こんにちは、バルカン研究会です!!
バルカン研究会(通称バル研)には、東京外国語大学の学生で、専攻言語・地域として指定されていない文化圏に興味のある学生が集まっています!
「マイナーな国に興味がある」
「バルカン諸国や東欧・北欧に興味がある」
といった方は、是非このブログに足を運んでみてくださいね!
今回は、ソ連の構成国の一つであったウクライナについて、一般にはあまり知られていないその概要についてご紹介するため、筆を執らせて頂きます!
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外務省のウクライナの説明を見ると、以下のようになっています。
領土面積:60万3,700平方キロメートル(日本の約1.6倍)
人口: 4,205万人(クリミアを除く)(2019年:ウクライナ国家統計局)
首都:キエフ
民族:ウクライナ人(77.8%),ロシア人(17.3%),ベラルーシ人(0.6%),モルドバ人,クリミア・タタール人,ユダヤ人等(2001年国勢調査)
言語:ウクライナ語(国家語),その他ロシア語等
(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ukraine/data.html#section1より)
意外かもしれませんが、ウクライナはヨーロッパ随一の面積を誇る国家なのですね。チェルノーゼムと呼ばれる肥沃な国土地帯が存在するため、穀物生産が非常に盛んです。ソ連時代には、穀倉地帯として重宝されました。
人口統計が「クリミアを除く」となっているのは、2014年のクリミア併合によって人口調査が実施できなくなっているためと思われます。
ウクライナの都市としては、有名な首都キエフの他に、ロシア皇帝エカチェリーナ2世時代に建設された海港都市オデッサ、ポーランド人によって建設されたウクライナ色の強い西部の都市リヴィウ、人口第二の都市ハルキウなどがあります。
クリミア・タタール人とは何か、と思われた方がいらっしゃると思います。この民族はトルコに由来をもち、クリミア半島に永らく定住してきた民族です。13世紀にヨーロッパにまで版図を広げたモンゴルの直轄国・キプチャク・ハン国の末裔国家として、クリミア・ハン国という民族国家を有していた時期もあります。
ウクライナで話される言語に関しては、ほぼ全国民がロシア語とウクライナ語のバイリンガルであると考えられます。ただし地域差(西部ではウクライナ語が強く、東部ではロシア語が強い。また、大都市ではよりロシア語が使用される傾向がある。)や個人差(詳細な区別はバイリンガリズムの研究に譲りますが、例えば、文章語のみでロシア語を使う、Passive(;聞く場面と読む場面)な場合にのみロシア語を使用するなど)があります。母語がロシア語でウクライナ語が第二言語である人もいれば、その逆の人もいます。
また同サイトには、以下のようにウクライナの歴史がつづられています。
8世紀 | キエフ・ルーシの成立 |
1240年 | モンゴル軍キエフ攻略 |
1340年 | ポーランドの東ガリツィア地方占領 |
1362年 | リトアニアのキエフ占領 |
1648年 | フメリニツキーの蜂起(ポーランドからの独立戦争) |
1654年 | ペレヤスラフ協定 |
1764年 | ポルタヴァの戦い(ロシアからの独立戦争) |
1853年 | クリミア戦争 |
1914年 | 第一次世界大戦 |
1917年 | ウクライナ人民共和国(中央ラーダ政権)成立 |
1917年~1921年 | ウクライナ・ソビエト戦争 |
1922年 | ソビエト社会主義共和国連邦成立 |
1932年 | 大飢饉(ホロドモール) |
1939年 | 第二次世界大戦 |
1941年 | 独ソ戦開始,独によるウクライナ占領 |
1954年 | クリミアをウクライナに編入 |
1986年 | チェルノブイリ原発事故 |
1991年 | ウクライナ独立,ソ連邦崩壊,CIS創設 |
1996年 | 憲法制定,通貨フリヴニャ導入 |
2004年 | オレンジ革命 |
2013年~2014年 | マイダン革命(尊厳の革命) |
紙幅の関係上、事細かに説明することは叶いませんが、すこしだけピックアップしてお話ししようかと思います。
まず「キエフ・ルーシの成立」ですが、スカンディナビア半島からやってきたヴァイキングが大陸内部へ攻め込み、果ては地中海にまで進出していった経緯は有名なところです。彼らは9世紀頃に、現在のウクライナの首都・キエフを首都としてキエフ公国を建設します。この事実をもって、現在のロシアやウクライナ、ベラルーシ民族の起源であるルーシ民族の歴史が始まるとされます。
「ポーランド」や「リトアニア」といった国々がなぜウクライナに関係しているのか、と疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、「ポーランド・リトアニア共和国(自称は、ポーランド語に由来するジェチ・ポスポリタ。英語名ではCommonwealthなどとも呼ばれる。)」といえば、中世・近世随一の東欧の大国です。ポーランド・リトアニア共和国は、当時ウクライナに住みついていたウクライナ・コサックを服属させ、軍事力として利用していました。その微妙な関係の裏には様々なドラマティックなストーリーがあるのですが、今回は書きません。
ソ連支配下におけるウクライナ共和国において特筆しなければならないのは、「大飢饉(ホロドモール、Holodomor、Famine Genoside)」です。聞きなれない単語かもしれませんが、この史実は、ナチスによるホロコーストに匹敵するソ連によるジェノサイド(大量虐殺)であると、様々な機関により認定されています。先ほど述べた通りウクライナは世界随一の穀倉地帯ですが、ソ連中央による過剰な穀物徴発によって、ウクライナでは大飢饉が発生しました。都市間移動が禁止され、人肉食まで行われたといいます。ウクライナ最大の悲劇と言えます。
「ユーロマイダン」は、記憶に新しいのではないでしょうか。親露路線に傾いた当時のヤヌコヴィッチ政権に対してウクライナのジャーナリストがFacebookで抗議集会を呼びかけたのを発端とし、公安との衝突により多数の死傷者を出すほどの大規模に発展した「革命」です。ただしこの事件には複雑な政治力学が働いていると考えられ、クリミア併合や米国のウクライナ問題などと合わせて、慎重な考察が必要です。
次に、ウクライナの料理と伝統文化についてご紹介したいと思います。
- ボルシチ(Борщ)
ビーツ(地中海沿海原産、サトウダイコンの一種)をベースとし、ニンジン、ジャガイモ、キャベツ、タマネギなど種々の野菜や牛肉、豆などを煮込んだスープ。出来上がりはビーツの色素により深紅色に染まります。スメタナ(サワークリーム)をトッピングすると、白色が混ざることでピンク色となります。仕上げに、香草のディルを添えることがあります。
食事を提供する場ならどこのメニューにあるといっても過言ではなく、レストラン、カフェはもちろん、学食などでも当たり前のように提供されていました。この料理に関しては、一般の家庭に、調理実習として習いに行きました。言うなれば、日本のお味噌汁みたいなものでしょう。お味噌汁にバリエーションがあるのと同様に多様性があり、ゼレーヌイ(緑の)・ボルシチと呼ばれるホウレンソウが主役のボルシチなどもあります。
- ヴァレニキ(Вареники)
肉、キャベツ、チーズ、ジャガイモ、桜桃、イチゴ等の具を、小麦の生地で包んで煮たダンプリング料理。小型なので、フォークで刺して一口で食べられます。名称は、「茹でる」を意味するウクライナ語の単語“варити(ヴァルィートィ)”に由来します。
ヴァレニキも、ボルシチと同様地理的な広がりを見せる料理です。周辺諸国において作られる、ヴァレニキと共通点をもつ料理としては、ポーランドのピエロギ、ロシアのペリメニ(両者はほぼ同じといってよいほどに似ており、ポーランド語ではペリメニをラスキー・ピエロギ(ロシアのピエロギ)と呼ぶことがあるそう)などが挙げられます。
- サーロ(Сало)
サーロは、豚の背脂の塩漬けです。向こうのおつまみのような存在で、スライスされた切り身を黒パンとともに食べるのがお約束です。日本人の感覚では考えられない料理ですよね、でも、東欧を中心に、昔から食べられてきた伝統料理なのです。保存食として、兵隊や重労働者にも重宝されました。ポーランドやロシアでもサーロ文化は存在しますが、しかし、ウクライナ人のサーロへのこだわりは周辺諸国とくらべて強いと言われます。
サーロの味は、決してしつこくはなく、むしろあっさりとしています。味付けがシンプルなだけに、噛めば噛むほど脂の旨味が出てくるのです。個人的な感想ですが、非常に中毒性があります。塩分が多く含まれているため、サーロの食べすぎが健康問題を引き起こすという話も聞いたことがあります。
オデッサで食べたサーロにトッピングされていたのは、黒パン(хліб чорний)、ガーリックスライス、マスタードでした。サーロの旨味、黒パンのほろ苦さ、ガーリックスライスの風味、マスタードの刺激という組み合わせは絶妙で、是非おすすめしたいです。ボルシチの付け合わせとしても登場したディルが添えられることもあります。
続いて、ウクライナの伝統文化です(説明に関しては、在日ウクライナ大使館の発行物を参考にしました)。
・ヴィシヴァンカ(Вишиванка)
ウクライナの伝統的な民族衣装です。地域によって刺繍される紋様や地の色が異なり、そうした紋様は病気や悪霊などの「悪しきもの」から身を護るための「魔除け」の意味があります。最も一般的なのは写真の通り赤と白の組み合わせです。
・ピサンカ(Писанка)
ウクライナ語で「書く」を意味するПисатиに由来する名前をもつ、ウクライナのイースターエッグです。本当に多種多様な柄があり、とてもオシャレです。
・モタンカ(Мотанка)
ウクライナの魔除け人形。十字に結ばれた顔は、太陽神を表しています。ヴィシヴァンカの紋様と同様持ち主を災いから遠ざける他、幸せや冨を呼び込むといいます。結婚式のときもお守りとして用います。
以上になります。いかがでしたでしょうか。
ウクライナはとても個性的な文化や歴史をもっています。日本人にとってはロシアの陰に隠れてあまり目立たない国ですが、日本との交流がもっと広がってほしいなと、個人的に思っています。
この記事を読んでいただいたみなさんも、ニュースにウクライナが出てきたら、ちょこっとだけでもこの国について想像を巡らせてみてくださいね。
おわり
ブログを始めました。
こんにちは🇸🇮
バルカン研究会です。
この度ブログを始めました!
これからこちらでバルカン半島や東欧の国々について紹介していこうと思います。
スロベニアは人口約200万人、国土は四国ほどの小さな国で、首都はリュブリャナ、公用語はスロベニア語です。
スロベニア人の先生はスロバキアじゃなくてスロベニア!!首都はブラチスラバじゃなくてリュブリャナだから!!と強調していました。名前も位置も国旗も似ていて間違われることが多いらしいです。
歴史の流れはものすごくざっくりと、神聖ローマ帝国領→ハプスブルク領→オーストリア=ハンガリー帝国→セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(後にユーゴスラビア王国に改称)→ユーゴスラビア連邦→独立といった感じです。
上の国旗に描かれたトリグラウ山は南アルプスの最高峰で、スロベニアのシンボルであり、スロベニア人なら一度は登れ(?)という山です。
スロベニアはアルプスの南に位置する山岳国で、森林率もフィンランド、スウェーデンに次いでヨーロッパで3位、アドリア海に沿岸部も持つ自然豊かな国です。ウィンタースポーツが盛んで、私の親曰く長野オリンピックの時には大量のスロベニア人が来ていたそうです。
また、「アルプスの瞳」と呼ばれ湖上には教会が浮かぶブレッド湖、アドリア海に面するイタリア風の港町ピラン、ポストイナ鍾乳洞など多くの観光スポットがあります。
スロベニアはイタリア、オーストリア、ハンガリー、クロアチアと接し、国土が四国とほぼ同じ2万273k㎡と狭いためスロベニア人は夏休みはクロアチアの海に、冬休みはオーストリアのスキーリゾートに出かけ、ヴェネツィアにも3時間で行けてしまいます。
また、公用語はスラヴ語派のスロベニア語ですが、ドイツ語、イタリア語が話せる人も多い珍しい国です。地域ごとの方言も多く、スロベニア人は地域愛が強いそうです。
国民性は勤勉で規律正しく、完璧主義でドイツ人に似ています。また、クロアチア人とはライバル意識があって地ワインやソーセージがどちらの国発祥かで争うとか。
こんな感じでブログ、続けていきたいと思います!